思い込みと暗黙の了解
共働きの夫婦間で家事を担当している人が一度は感じたことが有るのではないでしょうか?急がしくて家事に手が回らない、疲れていて今日はやる気が出ない・・・そんなときにかけられる一言「手伝おうか?」普段は「ありがとう」と返せるこの一言も、自分が疲れていたり不満が溜まっていると、そうそう好意的にばかり捉えることができなくて「手伝うって他人事?」みたいに感じてしまうことないですか?
家事の分担ってどうなってたっけ?
自分一人でやらなくちゃ駄目なの?
毎日こなしてる時は当たり前でたまにやってもらうと、手伝ってもらってありがとうなの?
自分は毎日やってるのに???
などとドンドン隠れていた不満が露出してきたり・・・
良かれと思ってかけてくれた「手伝おうか?」の一言がとんでもない地雷になりかねない。
ではなぜ「今日は自分がやるよ」では無く「手伝おうか」になるのか?
継続と常習化によって起こる「担当者」意識
簡単に行ってしまうと パートナーには家事の当事者意識がないからです。
ではなぜ当事者意識がないのか?
ではなぜ当事者意識がないのか?
- そもそも出来ないしやったことがないので最初から任せてる
- 家事以外、特に仕事などの負担が圧倒的に違う
- 経済的な負担に大きく差がある
- 共同生活が開始した当時に何となくやっていたためそのままになった
1,の場合はもう仕方ないです、共同生活が始まった時点でそのことを知ら事が問題だし、知っていても改善する努力をしなかったことの方がもっと問題。これか覚える、教える、立場で進むしかありません。
2,の場合は理由がはっきりしているので比較的簡単に解決できます。自分の状況だけでなくお互いの状況を確認し合いましょう、自分が辛いときに相手が辛くないからと言って楽をしてる訳では無いです。そのタイミングが違うだけなので「お互いに手伝い合う」のが望ましいのではないでしょうか?
3,も2と大体同様ですが労力=経済力と単純に置き換えられないのが仕事と家庭の違いですよね。そこは家事代行を使うとかいろいろな提案を含めて話し合いましょう。
4,ですがこのパターンは厄介です。家事を担当している方が愛情であったり優しさだったりで、やってあげたいと思って家事をしていたのに、いつの間にかそれが当たり前になっていくんです。やってもらう方だけでもなく、実は家事を担当している方にも無意識に刷り込まれていきます。
それで上手く回っているときに、どちらにも不満がなく「暗黙の了解」的に担当者として自分(相手)を当てはめてしまいます。
人は楽な方に流されます。仕事で疲れて帰ってくれば尚更楽な方がいいに決まってます。なのであえて自分から今日はやるよなんて言いません。仕事より家事が好きで好きでたまらないなら話は別ですが、家に帰ってご飯ができてる、洗濯されてる、なんて環境が出来たらそれはもう濁流の木の葉のように流されていきます。おそらく悪気はないのでしょう、当然感謝もしていると思います。でもあえて理由もなく自分からやろうとはしなく成るはずです。
これが継続的な日常生活の常習化と担当者意識と成るわけです。
2,の場合は理由がはっきりしているので比較的簡単に解決できます。自分の状況だけでなくお互いの状況を確認し合いましょう、自分が辛いときに相手が辛くないからと言って楽をしてる訳では無いです。そのタイミングが違うだけなので「お互いに手伝い合う」のが望ましいのではないでしょうか?
3,も2と大体同様ですが労力=経済力と単純に置き換えられないのが仕事と家庭の違いですよね。そこは家事代行を使うとかいろいろな提案を含めて話し合いましょう。
4,ですがこのパターンは厄介です。家事を担当している方が愛情であったり優しさだったりで、やってあげたいと思って家事をしていたのに、いつの間にかそれが当たり前になっていくんです。やってもらう方だけでもなく、実は家事を担当している方にも無意識に刷り込まれていきます。
それで上手く回っているときに、どちらにも不満がなく「暗黙の了解」的に担当者として自分(相手)を当てはめてしまいます。
人は楽な方に流されます。仕事で疲れて帰ってくれば尚更楽な方がいいに決まってます。なのであえて自分から今日はやるよなんて言いません。仕事より家事が好きで好きでたまらないなら話は別ですが、家に帰ってご飯ができてる、洗濯されてる、なんて環境が出来たらそれはもう濁流の木の葉のように流されていきます。おそらく悪気はないのでしょう、当然感謝もしていると思います。でもあえて理由もなく自分からやろうとはしなく成るはずです。
これが継続的な日常生活の常習化と担当者意識と成るわけです。
思っているほど伝わらない
「手伝ってあげようか?」この言葉は紛れもなく優しさです、と信じたいです。
しかしコレを言われた側にしてみれば、手伝うんじゃなくて自分のことくらい自分でやれ!となっていく訳です。
家事をやってもらう側の思考
いつも頑張ってくれているから、今日くらいは代わりにやろう
家事をやっている側の思考やってあげるってなんだろう?こちらがやって当たり前と思ってる?
なぜこんなにもズレが生じるのかは、上記したように当事者意識、担当者意識の問題なのだけれど、そこにもう一つ「日々当たり前と思うことに対する意思疎通」が有るのではないかと思う。簡単に言うと「ありがとう」の一言
もっと言えば「いつもやってくれてありがとう」この言葉が日常に有れば、どんな時でも「手伝おうか?」が優しさだと素直に受け入れられる気がする。
もっと言えば「いつもやってくれてありがとう」この言葉が日常に有れば、どんな時でも「手伝おうか?」が優しさだと素直に受け入れられる気がする。
日常生活って不満は簡単に口から出るけど、お礼ってあまり出てこない気がする。だから、感謝されていたり喜んでくれているという気持ちが薄れて、不満があるのでは?と何処かに不安を抱えてしまう。そうなるとせっかくの善意もあてつけように捉えてしまうことに成るだろう。
いい言葉ほど口にしないと伝わらないものだ。
いい言葉ほど口にしないと伝わらないものだ。
解決した方が良い事と解決方法
ココまで掘り下げて考えていけば解決すべきことは見えてくる。
なによりコミュニケーションは話し合いだ。言葉で言うしかない。
「手伝おうか?」なんて言うな!では無く、その真意を感じ取りその上で、家事は、少なくとも共働きの家庭環境で「どちらかが一方的に担う」ものではなくお互いに率先して参加していくべきことなのだと共通認識を作っていこう。
解決すべきは「担当者意識」と「意思疎通」
「手伝おうか?」なんて言うな!では無く、その真意を感じ取りその上で、家事は、少なくとも共働きの家庭環境で「どちらかが一方的に担う」ものではなくお互いに率先して参加していくべきことなのだと共通認識を作っていこう。
解決すべきは「担当者意識」と「意思疎通」
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